バレエ映画としての「ミッドナイトスワン」(後半に少しだけネタバレあります)
2020年度日本アカデミー賞受賞作品ミッドナイトスワン(草彅剛主演)には、本格的なバレエシーンが数多く出てきます。内田英治監督も「これはバレエ映画でもあります」とおっしゃっています。
2001年〜2002年シーズンの、新国立劇場版のロミオとジュリエットを内田監督が見られ、この公演がきっかけで、いつかこんな映画を作りたいと、ご自身でバレエについて勉強されていったそうです。
ストーリーは、ショーパブで働くトランスジェンダー(性自認は女性なのに体が男性)の凪沙が、育児放棄された親戚の一果(いとこの娘)を預かるところから始まります。
不信感を抱えたまま同居生活が続きますが、一果のバレエを通して、互いに守り合い強い絆で結ばれていく、苦しくも美しい愛の物語です。
映画のはじめのシーンは、凪沙のお店スイトピーの4人のメンバーが白鳥の湖の衣装を着て雑多な控え室でメイクをしているところから始まります。 ショーが始まると4人のステップが上手だったのでうっとりしました。バレエ経験のない4人の俳優さんたち(草彅剛さん、田中俊介さん、吉村界人さん、真田怜臣さん)は、ターンアウトなど本当に難しいバレエを身に着けるために、忙しい中、毎回足がパンパンになるくらい、レッスンを頑張っていたそうです。レッスンが終わったら倒れ込むほどだったどそうです。
バレエの振り付けを指導したのは、千歳美香子さんという新国立劇場のバレリーナで、2004年の「花とアリス」から、いくつもの映画のバレエシーンの監修や振付をされている方です。
その千歳さんが20年以上、何万人という生徒さんを指導してきた中で、一番びっくりしたのは草なぎ剛さんの集中力だそうです。「はい、先生もう1回」「はい、先生もう1回」と何度も食らいついてくるそうです。こんなに「先生」と連呼されたことはない、と。他のスタッフと千歳さんが打ち合わせしていても、打ち合わせが終わった瞬間、すぐにまた「先生もう1回」と声かけてくるそうです。長年トップを走り続けている人というのは、短期間でその道の物を吸収しきる、これほどの集中力を持っているのだと目の当たりにしたそうです。
ミッドナイトスワンは、今までの日本の映画で初めてここまで本格的なバレエシーンを取り入れることができた映画だそうです。よく「映画のバレエシーンを見ると冷める」と言われたり、バレエのところだけ手足が別人になってることも多いですけど、本当にバレエで魅せる映画にしたかったので、役者選びの段階から本当にバレエのできる人、というとことにこだわったそうです。
振り付け指導はもちろん、衣装を着るときの順番やトーシューズの選び方などの動作も、実際にバレエを習っている方が見ても違和感がないように、細部にわたって千歳さんが指導したそうです 。
バレエの一果役の服部美咲さんは、現在中学校3年生で、小学校6年生の時にNBAジュニアバレエコンクールで優勝経験もあり、何百人もの応募者の中でも(当時中学校1年生でしたが)技術が安定していて 内田監督の目にも女優のたたずまいがあると映ったそうです。
バレエダンサーを目指していた少女が女優に転身するのですから、相当の緊張やプレッシャーもあったと思うのですが演技の中ではバレエの技術の素晴らしさももちろんのこと、一果と言う少女の苦しみや葛藤を見事に表現していました。監督も、ある意味「芸能界よりも厳しい」バレエの競争の世界を生きてきた彼女なら、女優としても戦っていける、と思ったそうです。
予告動画などで有名なシーンですが、凪沙が作った夕食のハニージンジャーソテーのやり取りの場面は、そっけない2人の会話の中にも、どことない温かみが伝わってきますよね。凪沙から「いただきますは?」と言われて、一果がボソッと「いただきます」とだけ返してくる、たわいもないやりとり。でも実は、映画の中のそれまでの一果を見たら「よくもあそこまで人に心を開くようになった!」と感動するほどなのです。
うつむいて目に気力はなく、感情を出すとしたら自分か他人を傷つけるという形でしかできない。ネグレクトにあった少女が人に心を閉ざして生きていく姿を強烈に感じさせてくれる演技でした。
凪沙に何を聞かれても無言。凪沙からは「あの子、何考えてんのかわからない」と夜のお店で同僚にぼやかれる始末。そこから、長い時間をかけて凪沙と会話をするまでになったのです。
だからこそ、その氷が溶けて凪沙とたわいもないやりとりをするようになったり、公園でバレエを教えたりするシーンが奇跡でさえあるのです。そこに見る人は小さな幸福を見つけ出すのだと思います。
実は、2人の間の心の氷が溶けていくのもバレエがきっかけです。バレエをやりたいと言う一果を経済的にも支えてくれる凪沙。でもある時事件が起きて、一果が屈辱的な悔しい思いをします。そしてその苦しみを自分を傷つけることに向ける一果の姿を見て、凪沙の胸が締め付けられ「強くならなきゃいけない」と言うのです。そこから2人の絆が強まります。
その夜、一果のことが心配だからとお店に連れて行きます。お店でトラブルが起きた時、一果が自分のバレエの力で凪沙の窮地を救うのです。一果の中に押し込められていた「愛の力」が解き放たれたようでした。そこから2人の距離がぐっと縮まり、温かな心の交流のシーンにつながっていくんです。
公園で凪沙が一果にプリエや白鳥の振り付けを教えてもらう。そして見知らぬ老紳士から声をかけられ、なんともいえない嬉しそうな表情で母娘のように寄り添う2人。
そんなつつましくも幸せな日々の中、一果が広島に帰ってしまうのです。一果を失った凪沙は、心身共に弱っていきます。その時に一果が嬉しい報告をしようと戻ってきます。凪沙の弱った姿に胸を締め付けられながらも、2人で海岸の砂浜に行き、凪沙の目の前で一果がバレエを踊るのです。苦しみ切った凪沙の魂を癒してくれたのも、一果のバレエなのです。「美しいものが持つ力」を感じるシーンでした。
そして最後に悲しいことが起きた後、不思議な力によって一果が最高の舞台に立つのです。そこで一流の演技をし、堂々と多くの観客を魅了します。このシーンを見てバレエの美しさを知ってくれる人が増えると思います。今まで習っていた人も、ますますバレエが好きになるでしょうし、習いたいと思う人もでてくるのではないかと思いました。
本当に美しい一果の演技。このシーンは映画全体の希望になっています。でも実はこのシーンを入れるかどうか、希望で終わるかどうか、内田監督は当初迷っていたそうです。内田監督は「全裸監督」の脚本・監督もされています。世の中の光も影も合わせて、まさに「清濁合わせ飲む」ようなかたちで、現実というものに深く切り込んでいく作品が多いです。そして、監督自身、実際には希望なんかない世の中なのに、希望という言葉を使うこと自体に拒否感があったそうです。ミッドナイトスワンだって、エンタメ性だけを考えれば、最後をバットエンドとしてもよかった。
でもその監督が、なぜミッドナイトスワンでは希望を入れたのかというと、内田監督自身がこの映画の作成中にコロナの緊急事態宣言で撮影中止を余儀なくされたり、アメリカでのロケが不可能になってしまったり、多くの絶望を味わいながらの期間だったからだそうです。その時に”希望って人間にとって必要なんだ”と心の底から感じ、こんな時だから希望で終わる映画にしようと決断したそうです。
私も、最後の一果の最高の舞台での美しいバレエのおかげで、世界の片隅で生きてきた凪沙の人生も救われたなと、心から感じました。 今回の映画の中で「暗く閉ざされた人の心を解放するバレエの力」「人と人を結びつけるバレエの力」「人の魂を癒すバレエの力」そして「多くの人に希望を与えるバレエの力」を感じました。 既にご覧になった方も多いと思いますが、多くのバレエに携わる方、バレエファンの方に見ていただきたい作品です。
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